「母さんが殺されるかもしれない」
それは、自分自身が暴力を振るわれるよりも怖いことだった。
この悍ましい感覚を、僕は最近まですっかり忘れていて
思い出すこともあまりなかった。
それが、ちょうど僕と同じような境遇の方の経験談を聞いている時に、
僕自身が経験した“あの時の感覚”を鮮明に思い出したのだ。
小学生の頃、激高した父が母やばあちゃんを殴り、
物置からナタを持ってきて、「殺すぞ」と叫びながら
その辺のものを壊しはじめた。
ばあちゃんは僕の手を引っぱり、隣の家に助けを求めに走った。
家には逃げ遅れた母と弟たちがいた。
警察が到着するまでの間、僕はばあちゃんの胸で泣きじゃくっていた。
僕の父は普段は冗談ばかり言い、人を笑わせるのが好きだった。
だけど、ものすごく短気で、何がきっかけで爆発するのか誰もかわからない。
一度怒りのスイッチが入ると、いろんなものに当たり散らし、
僕や弟たちも攻撃対象になることがよくあった。
理由もよくわからずに怒られたり、叩かれたりすることがとても怖かった。
それより辛かったのは、母親やばあちゃんに怒りの矛先がいくことだった。
ある日、ばあちゃんが突然いなくなった。
父の暴力がエスカレートし殺人未遂事件に発展してしまったらしい。
そのことを知らなかった僕からすると、突然ばあちゃんがいなくなり、
それっきり会うことができなくなってしまった。
大好きなばあちゃんとの突然の別れは大きなショックだった。
父の暴力は母さんに集中するようになった。
母が裸足で家を飛び出して一晩帰らないこともあった。
「今度は母さんが居なくなってしまう…」
母さんが暴力を振るわれるのも、いなくなってしまうのも怖くてたまらなかった。
命の危険を感じた母さんは、僕たち兄妹を連れて逃げる決断をした。
父が昼寝をしている間に、最低限の荷物だけ持ってそっと家を出た。
それ以来、僕は父に会っていない。
それから母は婦人相談所を頼り、
父と裁判し離婚、子どもの親権を勝ちとった。
僕たち兄妹は裁判の間、児童養護施設で生活していた。
母は生活を整え、僕が中学生の時に僕たちを引き取り、
女手ひとつで僕たちを育てあげてくれた。
母子家庭で5人の子どもを育てるのは並大抵のことではない。
母は昼も夜なく働いてくれた。
長男だった僕は“母さんと弟や妹たちを守ろう”という思いで、
日々の家事や弟妹たちの面倒を見た。
(思春期だったこともあり、弟たちに躾と称して怒り散らしてしまったことへの反省は尽きない。)
それでも僕にとっては、父という脅威から完全に離れた空間で、
母と弟や妹たちと安全に生活できるようになったことは、何より幸せだった。
そんなことを経て、僕にとって子どもの頃の出来事は、
『まあ色々あったたけど、結果的に幸せだった。母さんありがとう!』
というストーリーになった。
僕は18歳で福島から東京に移り住み、映画の学校に通うことになる。
人生の第2章といった感じだ。
それからは、自分の夢だった映画の世界で仕事をしたり
アルバイトをしながら自分の作品を作ったり
映像やデザインの技術で仕事が出来るようになったり。
過去の自分とは全く別の世界線を生きている感覚がある。
だけど、困ったこともあった。
18歳で自立して以降、頻繁に悪夢を見るようになった。
目の前で誰かが無惨に殺される。かなり凄惨で残酷な夢だ。
ひどい時はほぼ毎日、悪夢で目がさめる。
それに加えて、とてつもない虚しさや寂しさが心の中にいつもあった。
今思うと、やりたいことを自由にやれる一方で
自分を保つのがけっこう辛かった20代だったと思う。
そんな僕も、先日40歳になった。
今では、心の穴はだいぶ埋まったけれど、いまだに悪夢を見ることがある。
なんでこんなひどい内容の悪夢ばかり見るんだろうと、
つい最近までずっと不思議だった。
(夢の内容があまりにもグロテスクなので、誰かに話したこともなかった。)
だけど、その謎は
子どもの頃に感じた“あの感覚”を思い出した途端に、解けた。
「母さんが殺されるかもしれない」という強烈な恐怖、
大好きだったばあちゃんが急にいなくなってしまった喪失体験。
「今度は母さんがいなくなるかも...」という不安やストレスに苦しんだ記憶が
いまだに悪夢として現れているのでは。と思うのだ。
僕にとって、子どもの頃の記憶は
『まあ色々あったたけど、結果的に幸せだった』
という美しいストーリーで蓋をされていたのだ。
深層心理では〈まあ色々あった〉では、きっと済んでいないんだろう。
父はもう亡くなっている。
誰もいなくなったあの家で、いつの間にか孤独死していた。
だから僕にとっては、もうずいぶん昔に終わったことなのに
今も僕を苦しめている。
改めて驚いた。
普段の生活の中で、たまに悪夢を見るくらいはそれほど大したことではないのだけれど、
やっぱりいい気分じゃない。
いつか悪夢を見なくなる日は来るのだろうか。
一生付き合う覚悟で、過去をあれこれ時間をかけて整理していきたい。
そして何より、今とこれからをより良くしていこうと思っている。



