〜はじめに〜

 

ここに書かれていることは、僕のとても個人的な体験です。

 

僕にとって、作品を【作ること】と【観てもらうこと】は、大切なコミュニケーションの手段だと思っています。

自分が作品を作ったり、子ども達や親御さんに向けた活動をする想いの原点を語ることで、

作品を通じて伝えたいことが、より正確に伝わってくれたらいいなと思っています。

 

もちろん、僕のことを知らずに作品だけを観たいと考える人もおられるでしょう。

そんな方は、どうぞこのページは見ないでください。

 

作品を観ていただけるだけで、何かを感じていただけるだけで、これ以上嬉しいことはありません。

このページへやって来てきて下さったすべての方に、そしてこの先までお付き合いいただけるお人好しなあなたに、

心からの感謝します。

 

 

 

 

画面の中で、ビルが轟音をたてて崩れてゆく。

バブルの匂いを引き延ばして作られたような、90年代の真新しいビル群が次々と黒煙に包まれ、破壊されてゆく。

逃げ惑う人々を尻目に、煙の中から姿を現した巨大なラテックス性の着ぐるみが吠える。

 

少年時代の僕にとって、ゴジラは神様のようなものだった。

そこに映っているのがミニチュアで、ゴジラが2メートルの着ぐるみだと知っていても、その光景は僕の中に強烈なカタルシスを与えた。

 

幾何学的で、無機質で調和のとれた近代建築のビル群は、大人たちが必死に取り繕っている何かを象徴していて、

それを徹底的に破壊し尽くすゴジラは、「見ろ!これが世界の本当の姿だ」と叫んでいるように見えた。

 

 

僕の家は母子家庭だった。

離婚の原因は、父があまりにもめちゃくちゃで、どうしようもない人だっだからだ。

精神を病んでいたという父は、やがて働かなくなり、酒を飲んで暴れ、しょっちゅう暴力事件を起こしては警察の厄介になっていた。

 

セオリー通りというかなんというか、父による母へのDVも毎晩のように行われていた。

小学生だった僕は泣きながら仲裁へ入るも、軽々と投げ飛ばされた。

はじめは本当に恐ろしかったものだが、毎晩続くと慣れるもので、空中を舞っている時はなぜかちょっとだけ無重力の感覚を楽しんでいる自分がいた。

今思えば、だいぶ感覚が麻痺していたんだと思う。

大切な人が傷つくことの恐怖にも、人は慣れてしまうものなのだろうか。

 

母の我慢が限界に達し、婦人相談所に駆け込んだのは、僕が小学5年生になる頃だった。

僕を含めた5人の兄妹は母親と引き離され、児童相談所に保護された。

 

母の身の安全が保証されてほっとしている反面、僕たち兄妹は母親に会えない寂しさと不安を抱えていた。

児童相談所の職員さんは皆優しく、温かく僕たちに接してくれたけれど、薄暗くて人気のない閉鎖された場所に閉じ込められているようで、どこか居心地が悪かった。

 

児童相談所にやって来た最初の夜、6畳間に弟や妹達と川の字に布団を並べ、まだ甘えたい盛りの幼い弟と妹達を抱いて寝た。

僕は長男として弟と妹達を守ろうと決意した。

窓からは、高い壁に囲まれた児童相談所の四角い中庭が見えていて、そに雪が降っているのが見えた。

音もなくふわふわと降り積もる雪が不安をかき立て、そのぶんだけ僕の決意は固くなっていった。

 

 

「世の中、やっぱり全然上手くいっていない」

僕達5人兄妹はやがて、児童相談所から児童養護施設へと移された。

そこに暮らす仲間達の壮絶な過去を知るにつれて、僕はそう感じることが多くなった。

施設にいる多くの子どもが、かつて虐待を受けてここに来ていた。

 

「大人って、どうしてこんなに身勝手なんだろう」

「罪のない子どもが悲しい想いや、寂しい思いをしているのはどうしてだろう」

 

小学生の僕はその理由を考え続けた。

大人たちはみんな、自分達の暮らす社会に何も問題が無いかのように振る舞い、調和のとれた社会を築いて生きていると思っているけれど、

僕たちのような都合の悪い存在を社会の隅へと追いやって、何もなかったことにしているのではないかと思うこともあった。

 

人の人格というものは非常に単純な法則でつくられる。

子どもの頃の環境がその人の人である大部分を形作ってしまうのだ。

我が子を愛せない人は、また同じように親から愛されなかった人でもある。

バケツリレーよりも簡単に、悲しさや寂しさや暴力は世代を越えて連鎖する。

 

僕の弟や妹達は、父の記憶が無いという。

物心がついた頃の最初の記憶は、施設で見た風景だという。

施設での暮らしは、いわゆる普通の家庭の暮らしとはまるで違う集団生活だった。

たくさんの子ども達や保母さん達との生活の中で、僕たち兄妹も無事にすくすくと育った。

そして僕が中学になる頃、兄妹そろって母親に引き取られる事になった。

 

福島市の中心部から少し離れた場所にある、2部屋しかない狭い安アパートでの、念願だった母との暮らし。

貧しい家庭ではあったが、いつも賑やかで楽しい思い出ばかりだ。

 

あの頃、僕たち家族を支えてくれた母親の親戚のおじさんやおばさん、近所に住んでいたおばあちゃんの助けが無ければ、母の手ひとつで5人の子どもを育てることは出来なかったと思う。

おじさん、おばさん、おばあちゃん、本当に本当にありがとう。

 

 

特撮にはじまり、様々なジャンルの映画が好きになっていた僕は、18歳で東京の映画の専門学校へと進んだ。

学費は自分で出すと決めていたので、新聞配達をしながら学校に通える新聞奨学生という制度を利用することにした。

担任の先生には「辛くて挫折しちゃう人が多いから辞めなさい」と言われたが、僕はその言葉を軽く聞き流した。

 

先生の言った通り、新聞配達をしながら学校に通う日々はとても辛いものがあったが、僕は挫折しなかった。

映画制作に没頭していた。はじめてシナリオを書いて、役者を集め仲間達とカメラを回した。

その時監督した作品が小さな映画祭で賞を獲ったりして、ちょっとだけ自信がついた。

青春時代はそんな充実した、寝不足の日々が続いた。

 

その当時、とても感動したのが在学中に特撮映画の撮影現場にインターンとして関わることができたことだ。

大映の特撮映画『ガメラ』の撮影に美術応援として参加したことがきっかけで、卒業後は当時放送していた『ウルトラマン』のTVシリーズ作品に美術助手で参加することができた。

憧れの舞台で仕事ができること、円谷プロからお給料をもらえることが夢のようだった。

そして、なにより嬉しかったことは、大型スーパーのおもちゃ売り場で子ども達がウルトラマンのおもちゃに夢中になっている姿を見たときだった。

子どもの夢はこうして作られて、憧れ続けた一部の子ども達がきっと、十数年後にこちら側に来るのかもしれない。

『素敵だな』としか表現できないような、こんな連鎖もあたのか。

僕の心の中に、暖かく眩しい光りがいっぱいに差し込んだ瞬間だった。

 

『ウルトラマン』のTVシリーズに1年間関わった後、僕は自分で作品を作りたくなった。

大それた夢を叶えたいと思った。

 

自分の理想の映画を撮ってみよう。

昔から興味があった絵本作家になってみよう。

 

やりたいことがいっぱいあった。

表現を通じて、多くの人の心に何かしらの変化を与えることができないだろうか。

子どもの頃から感じていた社会への疑問に向き合い、それを解決できないだろうか。

悲しい想いや、寂しい思いをしてしまう子ども達を少しでもなくしてゆくことはできないだろうか。

 

現実に僕が出来ることは本当にちっぽけで、その一つひとつをただ積み重ねてゆく事しかできないけれど、

夢を叶えられる日が来ると信じて、ほんの少しづつではあるけれど前進している。

 

いつか、画面の前でゴジラに憧れていたあの頃の僕に言ってやりたい。

大人になったお前は画面のこちら側から作品を作って、多くの人の気持ちを変えられるんだと。

2016年初夏 西坂來人